石畳で整備された川沿いの歩道を右に折れると正面に小高い山がみえた。昔からここで暮らす人々に格別愛されてきた「眉山」である。万葉集にも詠われたこの山は稜線が眉のかたちに見えたことからその名がついたといわれている。
吉野川の河口に形成された砂州地帯につくられた城下町徳島市は、江戸時代には阿波国と淡路国の両国を領有した25万石の大藩の藩都だった。藩主は天下人豊臣秀吉との縁の深い蜂須賀家で、徳川家康とも上手く渡り合って乱世をくぐりぬけ江戸時代を生きた。
この地はもともと海運の盛んな地で、徳島藩は藍や塩、農作物、それから木材、木材加工品などを水軍を使って藩の経済を潤していた。特に城下の安宅という地に水軍基地を設け、多くの船頭・水主、船大工を住まわせていた。明治時代になって藩がなくなると船大工たちは禄を失ったが、船大工の技術を活かして日常雑貨から建具などの木工品をつくるようになり、「鏡台」の一大産地にまでなった。その伝統の手先の器用さが、小さな弁当箱をつくったのかもしれない。
徳島に「遊山箱」という弁当箱がある。
子ども用の小さなもので、持ち手のついた外箱のなかに三段の内重が納まっている。この遊山箱は春のひな祭りの旧暦3月3日だけに使われる特別な弁当箱である。一般的に遊山といえば野山に遊ぶ行楽のことをいうが、徳島ではこの節句の日に子どもたちが遊山箱をぶら下げて特別な場所へ行って遊ぶことをいう。このことは江戸時代から続いていて、江戸後期の文化年間の『阿波国風俗問状答』のなかにある「三日ひなまつりの事」の条に次のように記されている。
此の日、男女の子供、
べん當を持たせ、
船にて、汐干にあそび、
山にもたはむれ申候。

江戸のころより連綿と続いてきた徳島独特の遊山箱だが、昭和30年代をピークに節句に遊山という風習も徐々に見られなくなり、昭和40年代の終わり頃には消えかかっていた。そのような状況にあって、子どものころに遊山箱で遊んだ経験があり、遊山箱復活に力を注いできた人がいた。徳島市の中心街の籠屋町商店街に店を構える「漆器蔵いちかわ」の代表・市川貴子氏だ。
眉山を正面に見ながら商店街になっているアーケードに入り、左へゆくと二筋に分かれる角に店はあった。
市川氏は徳島市内から園瀬川をさかのぼった山間部の佐那河内村の出身で、子どものころの遊山の楽しい体験は今も鮮明に憶えているという。
「私が子どもの時分は、私を含めて戦後のベビーブームの子どもたちがたくさんいました。ですから私と同じように遊山箱を持って遊山に出かける子も多かったんです。私が育ったのは園瀬川の上流域にある山村でしたから、自然がいっぱいありました。
三月三日の節句には、近くの遊山山とよばれる特別な場所へ子どもたちだけで遊山に出かけるんです。『遊山山』というのがあるんですね。遊山山はどの集落にもそれぞれあったらしく、昔から遊山するのは山の頂上ではなく中腹で、あのあたりが遊山の場所だよということを親などから教えてもらうんです。子どもたちは遊山箱を提げて、そこに向かって山を登ります。子どもたちですから、それはワクワクするような冒険でした」
市川氏から見せていただいている様々な遊山箱はどれも三段重ねだった。お弁当のごちそうはだいたい決まっていて、それぞれの重箱に入っていたという。
「三段重ねの遊山箱には、どのお重に何を入れるという決まりはなかったと思いますが、たいていは下段の深いお重に巻きずし、中段のお重には煮染めや茹で卵、上の段には寒天やういろうが詰めてありました」
「当日の朝は台所が華やいでいました。すし飯の匂いがしてきます。巻きずしを母がつくっているんですね。もうあんなにうれしいことはなかった。
母のそばに行って、背伸びをして切り分けるのを覗くんです。すると巻きずしの端っこを、『ほら、』といってくれるんです。それが本当においしかったのを憶えています」


子どもたちだけで遊山するという徳島独特の節句の過ごし方は、どういう意味を持っているのだろう。市川氏によれば、この風習はおもに米作地帯のもので、そばをつくっている吉野川上流域ではやっていないそうで、海岸沿いの地域では「浜節句」といって、意味合いがちょっと違うらしい。
「食いしん坊は、お腹が空いたら家に走り帰って遊山箱にごちそうを詰め直してもらって遊山山に戻ってくるんです。何度も何度も山と里を行ったり来たりするんですね。
遊山山には田の神様がいて、そのたびに田の神様が子どもにくっついて里に下りてくるそうです。そこで、新しい年の米づくりの始まりは、ひな祭りという節句の日だとされてきたそうなんですね。
徳島ではひな祭りは女の子だけでなく男の子も祝う節句なんです。男の子も遊山箱を持って一緒に遊山しました。五月五日の節句には遊山しませんから、ひな祭りの遊山は『田の神迎え』という意味合いがとても強いのだと思います。
それと、遊山箱を持って何度も山と里を往き来するのは田の神迎えだけでなく、親にとって子どもたちが神隠しに遭わないように確認する意味もあったともいわれます。子どもたちで山へ入るわけですから、何度も家へ戻ってくるように遊山箱はわざと小さな弁当箱だったということを、私は大人になって知りました」

ほかにも徳島のひな祭りには特徴があるんです、と市川氏はいう。
「徳島市では3月3日のひな祭りの翌日は『シカノアクニチ』と呼ばれます。
古くから一年の主要な節句の日は仕事を休んで身を慎む日とされてきたようです。3日に出たごちそうを、翌日の4日にも食べるんです。2日も飽きるほどごちそうを食べるので、4日のことを『四日の飽日』というようになったと伝わっているところもありますし、徳島市内では大滝山で遊山するひとが多く、そこにいる鹿たちにとって迷惑なので『鹿の悪日』になったという説もあります」
江戸時代から続いてきた徳島の遊山の風習が戦後のはじめのころをピークに途絶えると、遊山箱も同時に消えていった。 近年、市川氏たちの努力でまた遊山箱は復活しつつあるが、遊山そのものの風習は依然途絶えたままであり、ますます少子化の時代が待っている。それを十分理解したうえで市川氏はいう。
「最近、遊山箱はお菓子の器や純粋にお弁当箱として復活しつつあります。今は遊山というひな祭りの風習はなくなりましたが、お菓子にせよ別のものでも、好きなものを詰めて楽しんでもらえたらいいと思います。それは時代時代で変わってもいいと思います。
ただ皆さんに憶えていてほしいのは、遊山箱は米作りにおける農神信仰から生まれ、この徳島が発祥だということです。徳島には昔から遊山箱というお弁当箱があって、それを提げて野山を駆けめぐっていた子どもたちがいた、ということをずっと憶えていていただけたらと思いますね」





