「未来を選択できるか」~父の背中に差した光
サステナビリティは道のりが長く、曲がりくねっているように見えることから、よくジャーニー(旅)に例えられる。ピーターのジャーニーの原点は、故郷のデンマークであり、生涯をかけて持続可能な未来を探し続けた、父の背中にある。
「父は長年にわたり北欧を『社会実験の場』として研究し、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランドのオルタナティブなコミュニティを回り、『北欧のチャレンジ』という本でその実践を報告しました。そこから導き出された生涯のテーマは、既存の仕組みに甘んじるのではなく、私たち自身が『未来を選択できるか』という問いに正面から向き合うこと。
父がそのテーマを掲げていた1986年ごろ、日本では今ほど注目されていませんでしたが、北欧モデルは『未来を選択する』ための道標の一つであり、そのオルタナティブな世界観に早くから触れて育ったことが、私がサステナビリティを志向する大きなきっかけでした」
1978年、当時10歳だったピーターは、原子力発電をめぐる国会決議を前に、全国で起きたデモ行進に参加する。反核運動の流れの中、政府や電力会社は原子力発電の必要性についてプロパガンダの色彩を帯びたPRをしていた時代である。ピーターの父はその反対側に立って運動をする一人だった。やがて、ピーターもその背中に惹かれるように、運動に加わっていく。
「10万人が議会の前に集まりました。デンマーク人口の約2%に相当する規模です。全国でデモ行進が行われ、私たちは第二の都市オーフスまで25キロメートルを歩き、仲間とともにシュプレヒコールを上げ続けました。原発自体は即中止にはならなかったのですが、政治家の決議を遅らせることができた。結果として翌年にはスリーマイル島、しばらくしてチェルノブイリの事故が起き、当時のデンマークにおける原子力という選択肢はほぼ消えたのです。市民の声が届いた。このとき、市民の力で政府を動かすという手応えを身体で覚えました。これが、私の原体験の一つです」
サステナビリティが人類にとって大きなテーマとなっていく背景には、20世紀の人類発展と経済成長という大きな成功がある。その陰で、環境汚染や自然資源の過剰消費といった予期せぬ副産物が顕在化し、さらにグローバル化が進む中で人権や社会システムの矛盾が生まれた。その課題解決のためには、市民はもちろん、企業を動かすことが欠かせない。
「日本でも1950年代から、水俣病や四日市ぜんそく等の公害病が社会問題となりましたが、最初に動いたのは市民でした。被害に苦しむ人々が声を上げ、運動家や研究者が警鐘を鳴らし、さらにメディアが報道したことで世論が形成されます。やがて行政が法規制を整備し、企業は外圧によってようやく行動を迫られることになりました。一人ひとりの行動と決意で、未来を変えることができるはずなのです」
ファースト・ミッションは「エコロジーを日本の経営者に教えること」
1984年、高校生だったピーターは留学生として初めて日本を訪れる。明確にサステナビリティを意識する以前のピーターに、日本の世界観は大きな影響を与えた。
「将来の進路は定まっていませんでしたが、日本が持つ独特の世界観は確実にその後の自分の進む道に大きな良い影響がありました。800万の神に象徴される自然観、美意識、欧米とは異なる価値の置き方。当時、サステナビリティという言葉を私はまだ知りませんでしたが、日本には必ず、今後のサステナビリティにつながる可能性がある。そう直感しました。この直感こそが、後に私の人生の選択につながっていきます。価値観の異なる文化に身を置くことで、視野を広げ、自然や社会との関係を捉え直すきっかけになりました。日本には、自然を畏れ敬う精神性や、日常の所作や美に対する繊細な感受性があります。私はそこに、持続可能性の思想と共鳴する核のようなものを感じました。それがどのように仕事につながるかはまだわかりませんでしたが、『この国には可能性がある』という感覚だけははっきりと憶えています」
1995年の春、ピーターは日本に定住する決心をする。当時、イギリスのオックスフォード大学へ進学予定だったが、日本からの一本の電話が彼の人生を大きく変えることになる。
「1994年、私はイギリスのシューマッハ・カレッジで1カ月、物理学者であり、作家であり、哲学者であるフリッチョフ・カプラの『Gaia, Ecology and the Systems View of Life』を学びました。生命観とシステム思考、そしてディープエコロジーの思想に深く触れ、浅い『後づけ』ではなく、抜本的に変えるという考え方に強く惹かれました。 翌年の春、日本の中小企業経営者の会員組織から、セミナーや国際シンポジウム開催のマネージャーをしてほしいとのオファーが届きました。これは、これまでに学んだディープエコロジーを伝える端緒になる。私はオックスフォードを断り、日本行きを決意しました。サステナビリティを追求する、これこそ自分のやるべき仕事、ミッションだと感じたからです。このときのテーマは『エコロジーを日本の経営者に教えること』。結果、この30年間、私はそのミッションに生きることになりました」
日本サステナビリティ史
日本における「サステナビリティ」は、1950年代以降の公害病や都市部の大気・水質汚染といった、ローカルな環境被害の議論から始まった環境問題が一つの起点となった。やがて、1970年代後半から徐々に資源の持続的利用や開発との関係が問われるようになり、次第に地球規模のグローバルな課題として捉え直されていく。大きな転機となったのが、1982年のナイロビ会議(UNEP管理理事会特別会合)だ。
「日本政府代表団は、21世紀を見据えた環境の将来像と戦略を検討する『特別委員会』の設置を提案、これが後の国連総会決議につながり、環境と開発を同じ土俵で論じる本格的な国際プロセスが動き出したのです。翌年、『ブルントラント委員会(環境と開発に関する世界委員会)』が設置され、1987年に東京で開催された最後の公聴会にて報告『我ら共有の未来』が公表されました。ここで示された『持続可能な開発』という概念が、以後の国際議論の共通言語になっていきます。この流れは1992年の地球サミットへと続き、気候変動枠組条約や生物多様性条約の議論が本格化していく。環境と開発をどう両立させるか。その問いが、ようやく地球規模で共有される段階に入った。日本はそのとき大きな役割を果たしたともいえるのです」

「CSR」それは長い回り道の始まりだった
1990年代後半、サステナビリティに関する企業の取り組みとして、CSR(企業の社会的責任)が普及し、企業の社会的責任を包括的に管理する動きが広がっていく。サステナビリティを社会に実装していくためには、企業が大きな鍵を握っていることは間違いない。しかし、本質的なサステナビリティの実現に向き合ってきたピーターにとっては、拭えない違和感が生まれることになる。
「CSRは、それまで主題だった環境だけでなく、人権や労働、地域社会への貢献まで含めて、企業が社会の一員として果たす責任を掲げました。ただ、CSRとしての取り組みはどうしても『守り』の傾向が強く、法令遵守やリスク管理などの仕組みを整えることが中心で、企業の成長や価値創出には直接結びつかない。市場や投資家からもプラスの評価につながりにくいこともあり、ビジネスの目的、本質とはかけ離れてしまいました。
企業がサステナビリティに取り組もうとするとき、実はCSRは非効率です。企業にとって本当に重要なのは事業を通じて社会に価値をもたらし、その成果が社会の健全性を高め、企業自身の成長や収益につながっていくというサイクル。つまり、『価値創造のプロセス』と『社会的な持続可能性』の一致。私はこの考え方を『トレードオン』と呼んでいます」
2009年、ピーターは「第五の競争軸」という考えを提示する。品質が第四の競争軸として企業価値を左右したように、サステナビリティが次の競争軸になるのであれば、徹底したマネジメントと能力開発が必要になる。そこに至る道筋を考える上で、重要な意味を持つのが、この「トレードオン」の概念だった。
「背景には、従来の『トレードオフ』への違和感がありました。どちらかを犠牲にする前提では未来は拓けません。ある会議で私がその思いを口にしたとき、同僚が『それならトレードオンですね』と。私は膝を打ちました。企業の価値創造と社会の健全性が、ポジティブなループで回っていく。以後、それが私の中核概念になりました。
『トレードオン』を掲げると、議論は自然に設計へ向かいます。何をやめ、何を足し、どの順序で回路をつなぐか。現場の知恵が活きるのは、まさにこの設計段階です。私は数多くの会議室で対立の構図を設計の課題へと置き換えていく瞬間を見てきました。そこでは、不可能に見えたものが手順と役割の書き換えで可能へと変わっていきます。とはいえ、第五の競争軸はまだ模索の段階。CSRを義務として消極的に受け止めるのではなく、社会課題の解決と企業の持続的発展がリンクした正しい循環を築くことがサステナビリティ経営であり、そこにしか解決の糸口はないのです」
世界では、すでに2005年にNestléとマイケル・ポーターらが提唱したCSV(共通価値の創造)やGEのエコマジネーションなど、グローバル企業が価値創造へ舵を切っていたが、日本はCSRに飲み込まれてしまった。ピーターはそれを「回り道」と表現した。
「CSRはスタートラインを整えるのに一定の役割を果たしことは否定できません。ただ、リスクと管理指標に翻弄されるほど本質からは遠ざかるところもあります。私はクライアントに対し『必ず振り子はサステナビリティに戻る』と繰り返し伝えましたが、当時それに耳を傾ける人は少なかった。ただサステナビリティは普遍概念であり、CSRもCSVもある意味でサステナビリティを焼き直して再定義した言葉であり、時代ごとに生まれるバズワードに過ぎません。言葉の流行に合わせて旗を替えるのではなく、最も普遍的なサステナビリティの問いに立ち戻ることが大切なのです」
日本初のサステナビリティ・コンサルの誕生
少し話の時計の針を戻す。
2000年、ピーターは後の日本のサステナビリティにおいて大きな役割を果たすことになる日本で初めてのサステナビリティ・コンサルティング会社であるE-SQUARE(イークスエア)を共同創業する。「エコロジーを日本の経営者に教えること」を基点とするミッションを進化させ、ジャーニーは新世界へと広がっていく。
「2000年、木内孝さん(三菱電機アメリカ元会長)とサステナビリティ・コンサルティング会社イースクエアを共同創業しました。きっかけは、地下鉄の車内での会話です。サステナビリティに関する日本の企業の向き合い方に危機感を感じていた私たちは『それなら、会社でもつくるか』『つくろう』と、その場で決めました。市場にはまだサステナビリティ・コンサルティングというカテゴリーがなくて、競争相手のほぼいないブルーオーシャン。もちろん、その意識レベルのある企業はまだ稀でしたが、一度企業に入り込めば、サステナビリティ報告書から戦略、教育に至るまですべてにコミットできる。そのときに最も大きなインパクトを与えたのが日産自動車との仕事です。社長のカルロス・ゴーン氏が持ち込んだグローバル経営のもと、サステナビリティレポート、戦略、教育など包括的に支援し、一社だけで、普通の企業のサステナビリティ予算の数倍にも及ぶ、相当な投資がなされました。私たちは会社の各部門長に対してレクチャーやワークショップを繰り返し、ゼロベースからリテラシーをつくっていきました。 当時、日産はゴーン社長による再建の真っ最中。欧州式のマネジメントで現場の裁量が大きく、『自由に使える予算を持つ現場のリーダー』の存在が挑戦を後押ししてくれました。前例のない領域だからこそ、クロスファンクションの一環として、部門横断で対話を重ね、経営と現場の視点を往復しながら、言葉と実務を整えていく。サステナビリティそのものの理解や、報告書の体裁だけでなく意思決定のルールや評価の基準を問い直すことで、確実に組織を変えていきました」
ESG投資とサステナビリティ
2010年代以降、投資家がリスクを回避するための「指標」として、環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)の視点を投資判断に組み込んだ投資手法の普及が進んでいくようになる。ただ、ESG要素を財務分析や企業評価に組み込む「ESG評価」の考え方が徐々にスタンダードになったものの、投資家の判断材料の一つにとどまっており、ESG投資自体が社会課題の解決につながっていないという現実も顕在化している。
「ステークホルダー資本主義において、本来は株主だけでなく、ステークホルダー全体の利益に配慮することが重要なのですが、現実には、株主資本主義の影響により短期的な財務指標や、株主利益を優先して企業の意思決定が行われています。社会的意義や中長期的な価値創造とのバランスをとることが難しいからです。多くの企業はESG投資を考慮した表面的な対応にとどまり、トレードオンの仕組みを十分に構築できていません。
2015年以降資本市場との結びつきが強まり、ESG投資は義務対応の文脈で拡大しました。しかし、スコアを上げることが目的化した瞬間に本質からは離れる危険性も高まります。私は『数億円単位の資金を開示対応や格付け対策に投じる前に、サステナブル戦略やイノベーションに投資すべき』とお伝えしてきました。開示項目のチェックと不足埋めは、例えばコンサルティング会社にしてもビジネスにしやすい領域です。しかし本来は、サステナブル・イノベーションやサステナビリティ戦略に投資をしていかなければならない。本末転倒とすらいえます。もちろん、開示を軽視しているわけではありません。透明性は信頼の礎です。ただ順番を間違えてはいけない。コア事業の構造と価値創造を更新するための投資と取り組みがあって、初めて開示に魂が宿ります。数字やフレームに合わせて中身を整えるのではなく、中身を動かすから数字が意味を持つのです」

サステナビリティにおける三つの波。そして、訪れた第四の波
ピーターによると、サステナビリティの歴史は三つの波を重ねてきたという。
◯ 第一の波(~1980年代後半)法令遵守とリスク管理、メセナ中心 。
◯ 第二の波(1987年~90年代末)積極管理と情報開示、法を超えるCSR取り組みの広がり。
◯ 第三の波(2005年前後~20年ごろ):CSVなどの登場による市場との連動。価値創造と結びつきが進展した。そして2020年代に第四の波がきた。
「第四の波、それはリジェネレーション(再生・修復)です。これまでサステナビリティが目指していた『壊れたものを元に戻す』から『より良くする』へと重心が移りつつある。私はそこに希望と責任の両方を見ています。再生は単なる被害の軽減ではありません。関係を結び直し生命のネットワークを強くすることです。企業がこの視点を持てば、価値創造の回路もまた深く長くなっていくはずです。
問題なのは、私たち人類にとってもうそれほど猶予は残されていないということ。世界人口は年間6,000万~7,000万人規模で増加し、その多くが新たに消費経済に参入する『グローバル・ミドルクラス』です。中流層の拡大はエネルギーや資源の需要を急激に押し上げ、環境負荷を一層深刻化させる。
つまり、悪化は何もせずとも進みますが、サステナビリティは自動的には実現しません。課題解決のためには、既存モデルやコスト構造などさまざまな抵抗因子を取り除かなければならないのです。ここに人類最大のジレンマがあります。もはや『やるべきか否か』を議論する段階にはありません」
ラストプロジェクト──4Revs
人類のサステナビリティにとって鍵となるのは「食」「水」「資源」「エネルギー」だ。どのようにして土壌を壊さず食糧を確保するか、水の循環を担保するか、生物多様性を保持したまま資源を調達するか、大気を汚染せずにエネルギーを得るか。この4要素が人類生存のボトルネックにもなっている。だからこそイノベーションが必ず起きる領域であり、すでに再生型農業や再生可能エネルギー、サーキュラーエコノミーといった新しい解決策が世界各地で取り組まれている。そして、ピーターもまた、40年におよぶジャーニーの集大成として最後のプロジェクトにチャレンジしている。
「私は、日本でのラストプロジェクトと位置づける挑戦に取り組んでいます。2015年に立ち上げた次世代のサステナビリティリーダーを育成するNPO法人NELIS(ネリス)で進めている『4Revs(フォーレブス)』─ 食料・水・資源・エネルギーという四つのレボリューションを企業が共創するプラットフォームです。
東京のど真ん中にフィジカルな拠点(約2,500㎡)を設け、これまで共創してきた滋賀県とも連動し、現在、大手企業六社+老舗の和菓子メーカー「たねや」と準備を進めています。

私は、成功しても失敗しても、これをやり切ったら『サステナビリティ×ビジネス』の舞台から身を引くと決めています。成功すればグローバルに通用するモデルになる。拠点をつくる意味は、象徴のためでなく、実装の場を生むためです。企業・行政・市民・若手、立場の異なる人たちが同じテーブルで設計し、試し、学び直す。共創の反復が、社会実装の速度と質を押し上げます。私は、ここを行動の集積地にしたいと考えています」
そして、ピーターのもう一つのソウルワークが次世代のグローバルリーダーを育成するOne Million Leader(OML)だ。
「着想は2004年、セイコーエプソンのヤング・グローバル・リーダー会合で諏訪湖へ向かう車中でした。私はエプソンのように真摯にサステナビリティに向き合おうとする会社ですら、企業内での研修のような『システムの中枢』だけでは本質は変わらないという悩みを抱えていました。そもそもほとんどの企業でシステムの真ん中にいる人はその恩恵を受けているので変えたくない。サステナビリティの時間軸を考えると彼らにとってのメリットがない。ならば、企業の中枢でない世界の末端にまで視野を広げ、そこにいる次世代リーダーをボトムアップでネットワーク化し、マスで育成するしかないと直感し、NELIS(Next Leaders’ Initiative for Sustainability)のアイデアが浮かびました」
ただ、その後スムーズに実現というわけにはいかなかった。ピーターは2007年から2014年まで、病気で現場を離れることを余儀なくされる。 「軽井沢に隠居して二年ほどで、すべての仕事を辞めました。イースクエアからも離れ、収入も仕事もコネクションもほぼゼロ。ひたすら内面と身体の再生 に目を向ける日々でした。2013年ごろ、ようやく回復し始め、『さあ、どうする?』 。そのとき、NELISはやらなければならないと決心したのです」
再び動き始めたピーターは、2015年、滋賀の活動仲間である建設会社秋村組三代目社長秋村田津夫氏 、たねや四代目社長山本昌仁氏とともに、世界の若手を日本に集めるネクスト・リーダー・サミットを立ち上げ、プロジェクトを開始する。資本は小さく、クラウドファンディングと資金の出し合いで継続しながら少しずつネットワークを広げた。プロジェクト開始から10年、これまでに100カ国前後から参加があり、事務局はネパール、レバノン、ナイジェリア、コロンビアの四拠点となった。グローバルサウスの現場で、ある年はフェロー約800人が活動し、彼らが巻き込んだ地元のリーダーの卵は5,000~6,000人に達している。数年で一万人を超える規模に届いたこの動きをどう百万人へ伸ばすかが最大のテーマだ。
「この組織はティール型で、ヒエラルキーも恐怖も命令も決まった役職もありません。それでも人は動きます。最初は不可能だと思えた組織が現に立ち上がっています。私はこの現実に、大きな希望を感じています。もう一つ、私が日本国内で注力している取り組みの一つに、『ソーシャル・イントラプレナーの育成』があります。これは、会社に属しながらも社会課題の解決を志向し、組織のリソースを活用して新しい価値を生み出す社内起業家です。日本は『道』や『型』を重んじる文化です。新しい型が示されれば、そのなかで独自の進化を遂げていける強みがあります。ソーシャル・イントラプレナーが日本における次世代の『型』となり、イノベーションを起こす人材を育てる大きな契機になることを期待しています」
今日まで、そして明日から。終わらないストーリー
40年を超えるサステナブル・ジャーニーの途中、ピーターが見る今の日本のサステナビリティの景色はどのようなものなのだろうか。
「責任領域はよくやっていると思います。管理と改善。ただ、まずリーダーシップに課題がある。リードをしていくという気概が足りない。リーダーシップの一つは、どうなるか分からない未踏の領域に踏み込んで、誰もやったことのないようなことに挑戦することです。
今の日本は、『この方向性は間違いないので、誰かがつくったその道を歩いていく』という状態。だからいつも後追い。いつも周りを見て、いつも欧米を見てやってきた。でも普通のビジネスでいえば企業競争力を考えても、それは絶対に勝ちパターンではない。
サステナビリティも同じです。停滞感があるし、内向き思考がむしろ強まり、発想、思考の鎖国状態が強まっている。世界の産業界を見ればいろいろな面白い例も出てきている。フランスのSchneider Electric(シュナイダーエレクトリック)やスペインのACCIONA(アクシオナ)、ドイツのSiemens(シーメンス)は、大きな進化を遂げようとしている。重厚長大の企業でさえ、ユニークな取り組みをする会社も出てきているのに、学ぼうという意識がない」
「だからできない」から「どうしたらできるか」ヘ
日本企業にもサステナビリティについての良い取り組み方はあるはずなのに、結局は組織文化の問題で殻を破ることが困難。最大の原因としてピーターが警鐘を鳴らすのは、日本のリーダーたちの在り方だ。
「まずは経営リーダー。世の中をちゃんと勉強して自分がリードする覚悟を持つという基本的な姿勢をもっと示してほしい。日本のCEOを集めると、リーダーというよりスーパー部長の会議になる場合がある。意見のトーンが、本当のリーダーのトーンではない。非常に優秀な管理職なのですが、それでは不十分。自分でメガトレンドを学び、サステナビリティの文脈でも会社の強みをどう活かせるかを考え、実行する。当然、企業の中間層の思考の大転換も必要です。
事業部門やR&D部門であれば、サステナビリティがつくイノベーションをどうやればいいかを考え抜く。やるかやらないかでなく、どうやればいいかを考える。自分たちで考えなければならないステージにきているのです。
どの組織にも二つの部族が存在します。『だからできないんだ』族と、『どうしたらできるか』族。規模が大きいほど前者は増殖します。私は問い直したい。あなたはどちらに属しますか。自分の主体性と魂を会社に預ける必要はありません。価値観が合わないなら、市場が売り手優位の今、職場を変える自由もある。まずは『だからできない』から脱却し、『どうしたらできるか』に転身してください」
株主資本主義や日本の組織の課題や限界と向き合いながら、ピーターは希望も見つけている。それが、小規模であっても志あるファミリービジネスだ。
「私は希望の芽も見ています。滋賀県のたねやのような企業が示すモデルがあります。三重県の井村屋が最近つくったアップサイクルセンター(小豆の皮やおからの粉末化など)も、『自分たちで造ってしまう』という単純明快な一歩です。私は食品大手一五社とともに現地を訪れましたが、皆が感動して帰る一方で、口から出るのは『うちにはできない』という言葉。売上規模が100分の1の企業ができることを、なぜ自分たちはやれないのか。
例えば東京アップサイクルセンターを数十億円で共同設立することだって、やろうと思えば可能なはずです。ファミリー企業や上場してない企業などがたねやぐらいのモデルを示してくれたら、波及効果は若干小さくても、トータルで大きなインパクトにつながる可能性があります。
私は楽観主義者ではありません。ただ、行動することでしか世の中は変わらない。積極果敢に行動を重ねていくというだけです。そして、今一番大切なのは、本当のリーダーを育成すること。自分の軸をちゃんと持ち、自分は何をしていきたいかをわかっている人を増やすことが一番大切なことなのです」
ピーターの最後のメッセージは、「サステナビリティとは、『命のバトンを受け継ぐ』こと」。過去から受け取った命のバトンをいかにして未来の人々に手渡していくか、できない理由を並べるのではなく、どうしたらできるかを考えて実行すること。それこそが、私たちに課された使命なのだ。
ピーター D. ピーダーセン
1967年デンマーク・コペンハーゲン生まれ。コペンハーゲン大学文化人類学部を卒業後、2000年に来日。日本在住20年以上の経験を持つ、社会課題の解決に取り組むソーシャルデザイナーとして、企業や自治体との協働を通じ、持続可能な社会の実現を目指して活動している。著書に『レジリエントカンパニー』(東洋経済新報社)、『第5の競争軸』(朝日新聞出版)、『しなやかで強い組織の作り方-21世紀のマネジメント・イノベーション』(生産性出版)などがある。





